なぜ人は「他人の咀嚼音」を毎晩聞くのか ― ASMRが広がった本当の理

はじめに

YouTubeで石鹸を切る動画が何千万回も再生されている。ストーリーはない。情報もない。派手な演出もない。それでも毎晩、世界中の誰かがそれを再生している。

これが ASMR と呼ばれる現象だ。


ASMRとは何か

Autonomous Sensory Meridian Response(自律感覚絶頂反応) の略。特定の音や映像刺激によって生じる、心地よい感覚のことを指す。

体験者は「頭皮から背中にかけてチリチリする感覚(tingles)」と深いリラックスを報告する。代表的な刺激は囁き声、耳かき音、タッピング、梱包音、咀嚼音、焚き火や雨音など。

研究では、視聴中に心拍数の低下とリラックス状態の増加が確認されている。視聴目的の多くは「入眠補助」と「不安軽減」。娯楽として見られているのではなく、心理状態を整えるために使われている


どんな動画が見られているのか

ASMRは大きく4種類に分かれる。

囁き・ケア系 美容院、耳掃除、カウンセリングなどを再現する、2010年代初頭からの古典的な形式。ほぼ何も起きない動画でも夜間に習慣的に視聴される。研究では「対人接触の代替体験」に近い心理効果が指摘されており、視聴者は映像を"見ている"のではなく「自分に話しかけられている」と感じる。

ロールプレイ系 医者・受付・店員などの接客を再現する、現在の主流形式。「擬似的親密関係(parasocial interaction)」と呼ばれる現象と関係しており、脳が画面の人物との一対一のやり取りとして処理する。

生活音系 TikTokやショート動画で多いタイプ。石鹸カット・粘土・梱包・キーボードなど。規則的な音パターンが安心感を生み、言語に依存しないため国境を越えて拡散しやすい。

食事系(モッパン) 韓国発の文化で、咀嚼音を高音質で録音しながら食事する動画。研究では「孤独感の軽減」「一緒に食べている感覚」「食欲の代理満足」が視聴動機として挙げられており、食べ物の紹介ではなく共食体験の代替として機能している。実際、ASMRの最大再生数を叩き出しているのは囁き動画ではなくこのモッパン系だ。言語依存がなく、睡眠用途に限らず食事中にも再生されるため、再生回数が伸びやすい。


好き嫌いが分かれる理由

ASMRを快適に感じるのは人口の約2〜3割とされる。残りの人には、咀嚼音などが強い嫌悪感を引き起こすことがある。これは「ミソフォニア(特定音嫌悪)」と呼ばれる反応に近い。

同じ音でも「親密さ」として処理する人と「侵入」として処理する人がいる。だから評価が極端に分かれる。


なぜここまで広がったのか

コンテンツの面白さではなく、3つの環境変化が重なった結果だ。

① スマートフォンとイヤホン ASMRはイヤホン前提のメディアであり、ワイヤレスイヤホンの普及なしには成立しなかった。

② YouTubeのアルゴリズム YouTubeは視聴時間を重視する。ASMRは「寝るまで流し続ける」視聴が多く長時間再生が起きやすいため、推薦表示されやすい構造を持つ。

③ 社会環境の変化 一人暮らしの増加、在宅時間の長期化、対面コミュニケーションの減少。ASMR動画の「近距離から話しかける」形式は、対人接触に近い安心効果を持つと考えられており、こうした社会の変化と合致した。


企業もASMRを使い始めた

近年、ASMRは広告にも取り入れられている。家具メーカーが触感を伝える動画を制作し、飲料メーカーが開栓音や炭酸音を強調し、ファストフードチェーンが揚げる音を睡眠音として提供するケースも出てきた。

目的は商品の説明ではない。ブランドと「安心・快適」という感情を結びつけることだ。従来の広告が注意を奪うものだったのに対し、ASMR広告は注意を長時間維持させる。


ASMRの本質

ASMRは動画ジャンルではない。その役割は子守唄、暖炉の火、寝る前の会話に近い。

テレビは情報、SNSは交流、動画は娯楽とされてきた。ASMRはそのどれとも違う。心理状態を整えるために視聴されるメディアだ。

視聴者が求めているのは刺激ではなく、休息。それがASMRという現象の正体であり、一過性のブームではなく生活習慣として定着しつつある理由でもある。


参考・参照情報

■ ASMRの定義・心理研究


■ モッパン(食事ASMR)の社会的役割


■ ASMRクリエイター・文化事例


■ 企業によるASMRマーケティング


■ ASMR文化の拡大・解説記事

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