巨大LLMの時代に「小さなAIモデル」が反逆を始めた ー蒸留戦略の衝撃

はじめに:A.I. Underground という視点
Puckの特集「The A.I. Underground」は、いまのAI業界を象徴する一文から始まります。
ビッグファイブ(OpenAI/Microsoft/Google/Meta/Anthropicなど)が、理論上の超知能を目指して兆ドル規模の投資とデータセンター建設を進める一方で、より小さく、省エネで、現実的な課題解決に特化したモデルをつくる小さなラボ群が台頭している。
この「A.I. Underground」は、
大規模LLMの外側で静かに進んでいた 「小さなAIモデルの反乱」 を指しています。
ここでは、
- 小さなAIモデル(Small Language Models / Tiny Reasoning Models)
- それを支える技術・エコシステム
- ビッグテックとの力学の変化
を、世界中の報道や論文・企業発表をもとに整理し、「何がどこまで本当に変わり始めているのか」を見ていきます。
1. いま何が起きているのか
1-1. 小さなモデルが「推論性能」で大型LLMを打ち負かす事例
2025年10月、サムスン電子の研究チームが発表した「Tiny Recursive Model(TRM)」は、わずか700万パラメータの小さなモデルでありながら、数独のような推論パズルでGoogleのGemini 2.5 Proなどの巨大モデルを上回った、と報じられました。
TRMは、内部の推論表現を繰り返し更新しながら答えを洗練させる仕組みをもち、
「モデルサイズよりも、推論プロセスの設計が重要である」ことを示したと評価されています。
1-2. UAEの「K2 Think」:小さくて強い主権AI
2025年9月、アラブ首長国連邦(UAE)は、32Bパラメータの推論特化モデル「K2 Think」を公開しました。
- OpenAIやDeepSeekの大型推論モデルと同等レベルの推論性能
- しかしパラメータ数は200Bクラスのモデルより大幅に小さい
- G42がCerebrasのチップ上で効率よく動かしている
- 完全オープンソースとして公開され、「主権AI(sovereign AI)」の象徴と報じられた
Wiredは、「小さく効率的なモデルで、米中と競争しようとする新興AI国家の戦略的ショーケースだ」と位置づけています。
1-3. マイクロソフトのPhiシリーズ:本気の小型モデル路線
マイクロソフトは「Phi」シリーズとして小型モデルの開発を継続しており、
2025年7月には、約38億パラメータの「Phi-4 mini flash reasoning」を発表しました。
- ハイブリッドアーキテクチャ「SambaY」により、従来比10倍高速、2〜3倍の低レイテンシで推論可能
- エッジデバイスやモバイルアプリなど、リソース制約の厳しい環境で高度な推論を実現することを狙っている
- Azure AI FoundryやNVIDIA APIカタログ、Hugging Face経由で提供され、企業向け利用を前提にしている
これは、OpenAI依存を減らしつつ、自社でも「軽量で実務志向」のモデルポートフォリオを整えようとする動きの一環とされています。
2. 「Small Language Models(SLMs)」とは何か
2-1. 定義と特徴
OracleやHugging Faceなどは、「Small Language Models(SLMs)」を次のような特徴で定義しています。
- パラメータは概ね10B以下(数億〜数B規模が多い)
- 一般的なLLMよりも 狭いドメイン に特化して訓練される
- エッジデバイスやオンプレ環境で動作可能な計算量に抑えられている
- 企業のコンプライアンスやデータ主権に対応しやすい
Anacondaのまとめでは、SLM市場は2023年の約770万ドルから2030年には2,070万ドル規模に成長すると予測されており、エンタープライズAIの「現実解」として注目されていると報じています。
2-2. 研究・産業界の共通認識:小さい方が現実的
Harvard Business Reviewの「The Case for Using Small Language Models」は、NVIDIAの研究を引用しながら、
次世代の企業AIの中核は、巨大LLMではなくSLMになる可能性が高い
と述べています。
理由として挙げられているのは、
- 導入・運用コストが低い
- レイテンシが低く、ユーザー体験が良い
- データを社外に出さずオンプレで動かせる
- 機能を特定業務に絞ることで、運用上のリスクを抑えられる
といった、極めて現場寄りの理由です。
3. 研究のフロンティア:小さくても強いのはなぜか
3-1. 推論特化・反復推論というアプローチ
サムスンのTRMや、UAEのK2 Thinkは、いずれも「推論」に特化した設計になっています。
- TRM
- 小さなネットワークが、内部の推論状態と答えを何度も更新しながら精度を上げていく
- ARC-AGIのような推論ベンチマークで大型モデルを上回るケースが確認されている
- K2 Think
- 長い推論チェーンでの微調整、問題分割(エージェント的なプランニング)、強化学習を組み合わせて設計
- その結果、200B級の推論モデルと同等の性能を、32Bというサイズで達成している
ポイントは「一撃で何でも答える汎用モデル」ではなく、「特定タスクに対して、考える手順を工夫したモデル」に絞っていることです。
3-2. Agentic AI×SLMという潮流
「Small Language Models are the Future of Agentic AI」という論文では、エージェント型のAIシステムにおいては、
- 複数の小型モデルを組み合わせて
- プランニング/ツール呼び出し/検証などの役割分担をさせる構成
が現実的であり、大規模単一モデルよりもエネルギー効率・コスト効率に優れる、という主張がなされています。
また、SLM-Benchというベンチマークでは、15種類のSLMを対象に、精度・計算効率・サステナビリティ(エネルギー消費)などを多次元で評価しており、
「小型モデルをどう組み合わせるか」が、今後の設計上の重要テーマであることが示唆されています。
3-3. エネルギー・カーボンフットプリントの観点
言語モデルの電力・CO2排出を比較した研究では、
- 同じタスクを解く場合、小さなモデルをエッジやオンプレで回した方が、必ずしも大規模クラウド推論よりも環境負荷が高いとは限らない
- モデルサイズ、ハードウェア、電源構成(再エネ比率)を組み合わせた全体最適が必要
という結果が出ています。
ここに、
- モデル圧縮(量子化・蒸留・プルーニング)
- 専用アクセラレータ(Cerebrasや各社のNPU)
といった技術が組み合わさることで、「小さいが強い」「かつ環境負荷も低い」モデル を追求する流れが強まっています。
4. 小さなモデルが生まれている3つの理由
4-1. エンタープライズ実務:業務特化SLM
企業向けでは、
- ヘルプデスクのチケット自動分類
- コンタクトセンターのFAQチャットボット
- 特定業務の文章生成(レポート、契約ドラフト)
など、用途が比較的はっきりしている領域でSLMが選ばれています。
Harvard Business Reviewの記事でも、
「大規模LLMはPoCや試行には向くが、本番運用にはSLMの方が現実的なケースが多い」と指摘されています。
4-2. エッジ・オンデバイス:スマホからRaspberry Piまで
Edge AIやIoT分野では、
- スマホ、家電、車載端末、産業用機器
- オフライン環境や低帯域回線が前提の現場
といった制約の中で、Phi-3、Gemma、TinyLlamaなどの小型モデルが使われ始めています。
arXivの「Edge-First Language Model Inference」論文は、
- コスト削減
- レイテンシの低減
- 信頼性とプライバシーの向上
のために、クラウドからエッジへと推論を移していく構図を整理しており、その中心にSLMがあるとしています。
4-3. 主権AI・国産モデル:K2 Think以外の動き
UAEのK2 Thinkは象徴的な例ですが、他にも各国・各企業が「小さな主権モデル」を構築しようとしています。
- 自国の言語・法制度・文化に最適化
- 自国のインフラ(自前データセンター、独自チップ)で運用
- 海外メガクラウドへの依存を減らす
という狙いから、あえて小さく、特化型のモデルを選ぶパターンが増えています。
5. なぜこれは「ビッグテックへの挑戦」なのか
5-1. ビジネスモデルへの揺さぶり
Financial Timesは、OpenAIやMicrosoft、Metaなどが「蒸留(distillation)」によって自身のLLMから小さなモデルを作り、安価に提供し始めている一方、
DeepSeekのようなプレイヤーは、公開された巨大モデルを蒸留して独自の小型モデルをつくり、競争力を高めていると報じています。
つまり、
- ビッグテック:巨大モデル → 蒸留モデル → API販売
- 新興勢力:公開巨大モデル → 独自蒸留 → 小さいが十分強いモデルを自社で運用
という構図が生まれ、大型モデルそのものよりも、「そこからどれだけ良い小さなモデルを作れるか」 が競争軸になりつつあります。
5-2. インフラ投資ゲームからの離脱
Puckの「A.I. Underground」は、
- ビッグファイブは、兆ドル規模の電力・データセンター・原子力発電投資を前提にAGIゲームを進めている
- 一方で、スタートアップや小さな研究組織は、数千万〜数億円レベルの資金と限られたGPUで、小さくても役に立つモデルをつくっている
という対比を描いています。
後者にとっては、
「巨大なインフラ投資ゲームから降りて、別の土俵で勝ちに行く」
という戦略と言えます。
5-3. 規模の経済から「知識と設計の経済」へ
学術論文やベンチマークの結果が示すのは、
- 単純なパラメータ数ではなく
- データの質とカリキュラム設計
- 推論プロセスの工夫
- 蒸留やモデル圧縮の技術
によって、「小さくても十分に賢いモデル」が作れるという事実です。
これは、「GPUをどれだけ積めるか」という資本ゲームから、
「データ設計とモデル設計にどれだけ知恵をかけられるか」というゲームへのシフトでもあります。
6. 日本への示唆
日本の企業・自治体にとって、「小さなAIモデル」は次のような意味を持ち始めています。
- オンプレ・閉域網で完結できるAI
- 個人情報・機微情報を外に出せない領域でも、SLMならローカルでの推論が現実的
- 自社DCや自治体DCでの運用も視野に入る
- 中堅・中小企業でも手が届くAI
- 月数十万〜数百万円レベルのAPI課金が不要になり、
中小企業でも「自前モデルを適度な規模で持つ」選択肢が増える - 業務特化の社内SLMを少人数チームで運用するケースも現実味が出ている
- 月数十万〜数百万円レベルのAPI課金が不要になり、
- 国産LLM/国産SLMの戦い方
- 巨大汎用モデルでOpenAI等と正面から戦うのは現実的ではない
- 一方で、特定領域(製造業、日本語文書、行政手続きなど)に特化したSLMなら、
データもノウハウも日本側にアドバンテージがあり得る
- サステナビリティとレジリエンス
- 電力制約や災害リスクを考えると、「クラウド前提の超巨大モデル」だけに依存することはリスク
- 小さなモデルをローカルでも動かせる体制は、BCP(事業継続)や省エネの観点からも重要
7. まとめ:これからの問い
「小さなAIモデル」がビッグテックに挑戦しているのは、単にテクノロジー上の話ではありません。
- 巨大インフラへの依存から抜け出すための戦略
- 主権やデータガバナンスを確保するための手段
- 中小規模の組織がAIゲームに参入するための道
- 環境負荷とコストを抑えながら、現場にフィットするAIを届けるアプローチ
として、小さなモデルが「別のゲームのルール」を提示し始めています。
これから私たちが問うべきなのは、
- どんな領域は、依然として巨大LLMが有利なのか
- どんな領域は、小さなモデルの組み合わせで十分なのか
- そして、自分たちの組織はどのレイヤーで戦うべきなのか
という、かなり戦略的な問いです。
日本発の「小さくて強いモデル」「現場に刺さるエージェント型SLM」が出てくるかどうかは、
まさにこれからの数年で決まっていくように感じます。
参照URL一覧
How Smaller A.I. Models Are Challenging Big Tech – Puck
https://puck.news/how-smaller-ai-models-are-challenging-big-tech/
Samsung’s tiny AI model beats giant reasoning LLMs – Artificial Intelligence News
https://www.artificialintelligence-news.com/news/samsung-tiny-ai-model-beats-giant-reasoning-llms/
Samsung researchers create tiny AI model that shames the biggest LLMs in reasoning puzzles – SiliconANGLE
https://siliconangle.com/2025/10/09/samsung-researchers-create-tiny-ai-model-shames-biggest-llms-reasoning-puzzles/
The United Arab Emirates Releases a Tiny but Powerful AI Model – WIRED
https://www.wired.com/story/uae-releases-a-tiny-but-powerful-reasoning-model
The Case for Using Small Language Models – Harvard Business Review
https://hbr.org/2025/09/the-case-for-using-small-language-models
What Are Small Language Models (SLMs)? – Oracle
https://www.oracle.com/jp/artificial-intelligence/small-language-models/
Small Language Models (SLM): A Comprehensive Overview – Hugging Face Blog
https://huggingface.co/blog/jjokah/small-language-model
Small Language Models (SLMs) for Efficient Edge Deployment – PremAI Blog
https://blog.premai.io/small-language-models-slms-for-efficient-edge-deployment/
Edge-First Language Model Inference – arXiv
https://arxiv.org/html/2505.16508v1
Small Language Models are the Future of Agentic AI – arXiv
https://arxiv.org/pdf/2506.02153
SLM-Bench: A Comprehensive Benchmark of Small Language Models – Findings of EMNLP 2025
https://aclanthology.org/2025.findings-emnlp.1165/
Assessing the carbon footprint of language models – Applied Energy
https://www.sciencedirect.com/science/article/pii/S0921344925005476
Microsoft’s new ‘flash’ reasoning AI model ships with a hybrid architecture – Windows Central
https://www.windowscentral.com/artificial-intelligence/microsofts-new-flash-reasoning-ai-model-ships-with-a-hybrid-architecture-making-its-responses-10x-faster-with-a-2-to-3-times-average-reduction-in-latency
Small Language Models: The Rise of Compact AI and Microsoft’s Phi Models – Medium
https://medium.com/@adnanmasood/small-language-models-the-rise-of-compact-ai-and-microsofts-phi-models-cdc7cf20ea2d
AI companies race to use ‘distillation’ to produce cheaper models – Financial Times
https://www.ft.com/content/c117e853-d2a6-4e7c-aea9-e88c7226c31f


